ロックに学ぶ子供たち、大人たち
夢は必ず叶う!いや、夢なんて見続けるなんて馬鹿馬鹿しい!
努力は実る!いや、才能には叶わない!
規律なんてクソ食らえ!いや、ルールは絶対!
道徳的な話は映画を見る上で避けることができません。何が正しくて、何をすべきなのか。どの映画を見ても多くは「反体制」を語り、殊更に権力を嫌っています。
なぜ私たちは強大な権力に抗う姿、夢をがむしゃらに追い続ける姿に感動を覚えるのでしょうか。それは紛れもなく体制側にいる大人よりも、体制に巻かれている人々の方が多くの割合を占めるからだと思います。
ロックは、そんな反骨心を歌った弱者を代弁するような精神を象っています。そうしていつの時代も破壊力のあるメッセージを響かせているのですが、一方で退廃的なイメージがあるのも事実。
「スクールオブロック」の面白いところはロック狂のニセ教師が、将来体制側へ就くであろう優秀な子供たちにロックを教えて最後は大団円というチンチクリンなストーリーにあります。
ロックは正義ではない
誰しもが経験したであろう夢への挫折、社会への妥協。何もかもが嫌になって逃げ出したい気持ちに襲われるのは、子供も大人も同じです。
嫌な現実と戦うための武器としてロックを教わる子供たちですが、ちょっと待ってください。この映画ではデューイが子供たちを騙してロックを教え出すところからスタートします。それも大人が強要する「大人のエゴ」の1つではないでしょうか。
普段の授業よりも刺激が強く楽しいロックは、子供たちにとって甘い果実のように魅力的だったでしょう。ただしロックという道を提示した以上、それ以外の可能性を潰してしまうことに間違いありません。子供たちの選択を奪ってしまった、とも考えられるのです。
またデューイは子供の才能を見出し、それぞれに役割を与えます。子供たちは忠実にこなし、想像以上の成果をあげるのです。それもまた大人、つまり権力者のエゴであると言ってもいいでしょう。
果たして「スクールオブミュージック」は夢と希望の皮を被った支配的な映画なのでしょうか。しかしもう一歩踏み込むと、そうではないこともわかってきました。
Life of Rock!
「スクールオブロック」が尊重しているのは、子供たちの可能性でした。彼らは自分で考え、アイデアを出し見事なステージと音楽を作り上げます。自主性に何もかも委ねるのです。その正誤の判断をするのは大人であるデューイの仕事でもあります。
デューイは傲慢で常識を逸していますが、決して人を陥れたり蹴落としたりするような人間ではありません。純粋なロックへの思いで意思決定します。だからこそ子供たちがぶつけてきた主張を真剣に受け止め、自分たちのロックを素晴らしいものにしようと奮起したのでしょう。そこにエゴはありません。
残念ながら多くの人々は生き方を選べないはず。与えられた役割を全うするのが社会人としての本質です。一方で役割の中で何をするのか、という自由はほとんど際限なく与えられていると言ってもいいでしょう。
ならば大人が子供に与えるべきなのは努力できる「ステージ」であって、そこで何をするのか押し付けるべきではないのだと「スクールオブミュージック」から感じました。
素晴らしきロックンロール
ロックはあくまで音楽であり、思想や習慣とは全く別物です。いつまで経ってもロックが市民権を得ないのはファンキーな服装や行動、態度にあります。
映画のラストで子供たちは制服でステージに上がります。体制側が強要している服に身を纏ってロックンロールを奏でる姿は、ある種ロック本来の姿と言えるのではないでしょうか?最高にクールです。
与えられたレールの中で自分を表現する方法はいくらでもあります。もしあなたが自分の置かれた立場に不満を漏らし、窮屈さを感じているなら是非この映画を見てください。
あなたは既に武器を手にしています。しかも誰かを傷つけることのない、自分を救うための武器です。環境のせいにしているのが、もしかしたら馬鹿らしくなるかもしれませんよ?
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